世の中の流れを変えよう
元スズキ二輪車設計者 横内悦夫

(宮崎日日新聞連載 2008年5月14日 〜 2008年5月24日 掲載分) 7/9

〈61〉西ドイツテスト 高速2人乗りを想定

  昭和五十一(一九七六)年、私たちはGS750/400を二台ずつ、計四台を持って西ドイツに行った。六月の西ドイツは開放感にあふれている。寒く、長い冬から開放されて、一挙に吹き出した木々の葉は、太陽をいっぱいに浴びてまぶしい。辺り一面に花が咲き乱れる光景は、一年でも最も美しい季節だろう。
 二月のアメリカテストを終え、GS750/400ともに改良の手が加えられ、それぞれ二台が新緑の西ドイツに持ち込まれた。テストライダーは、西ドイツ、フランス、イギリス、イタリアから選ばれた四人が参加。スズキからもテストライダーの永田辰男を含めた数人のスタッフが加わり、十人ほどのテストチームが構成された。
 基地はフランクフルトから南へ三十分ほど走ったヘッペンハイムだ。まずはアウトバーン(高速道路)でテストしようということになった。この時代のアウトバーンはどこでも超高速で走ることができたからだ。時速二百kmのスピードは、テストコースでは怖くないが、アウトバーンという混合交通の中では速度感がまったく異なり、恐怖さえ襲ってくる。橋などのわずかな路面の継ぎ目も、時速二百kmともなると、大きな衝撃となって車体を突き上げる。これをきっかけに車体が左右に振られる。この挙動が増幅すれば、転倒という悲劇の二文字が待っている。
 私たちはこれを竜洋テストコースで事前に行い、絶対に安全であることを確認してこの地にやって来ていた。一人乗りで問題ないことを確認した後、二人乗りでのテストに移った。ではなぜ、二人乗りで時速二百kmもの高速テストを公道上で行わなければならないのか。答えは簡単で、数多いお客さまの中には、ほんのわずかだが、所有するオートバイにその能力があれば、時速二百kmで二人乗りする人がいるからだ。私たち開発者が最初に考えなければならないのが、お客さまの安全を守ることなのである。
 アウトバーンを降り、一般道では私も走ったが、彼らのペースにはとてもついていけない。アメリカ人と違って過激なまでに速い。マシンに要求されるのは、GPマシンのそれに近いレベルであることが分かった。選ばれた四人のライダーたちは、GPレースに近い走り方をする。
 彼らは、それぞれ自国での国内レースに出場しており、アメリカテストで決めた前後クッションよりもバネを少し強めにしてほしいという。私たちはそのようにして彼らの納得を得た。私はテスト中にパフォーマンスバイクをどのようなものにすればよいのかを考えていた。

[写真:GS750にまたがる永田辰男(左)とテストチーフだった私]


〈62〉3つのバランス 走る、止まる、曲がる

 パフォーマンスバイクを考える上で、過去に私は貴重な体験をしている。昭和四十七(一九七二)年の十月、スズキの二五〇cc車駆って、スイスのアルプス越えをしたときである。スイスの代理店の人と二人でチューリヒをたち、ウイリアム・テルの銅像を見て、かのアルプス越えに挑戦した。
 切り立った崖(がけ)を削って造られた狭い急坂路、急カーブの連続だ。私は高所恐怖症に悩まされながら、必死について行った。狭いパーキングに止まって、真下を見ると、ウサギが何匹も見える。すると相棒は、あれは牧場の牛ですよ、と言う。少し上に目をやると、紺ペきの天空に輝く白銀のユングフラウが美しい。
 相棒は慣れた道なので、スイスイと走る。私はきついコーナーを必死で曲がり、コーナーを立ち上がると二速ギアでエンジン全開にして走った。次のカーブ手前で急ブレーキ、そしてまた曲がる、の連続だ。そうだ、“走って止まって(急ブレーキ)曲がるのがオートバイの基本である”ことに初めて気付いた。これら三つの機能のバランスが高度に取れていれば、それこそが本当のパフォーマンスバイクなのであろう。
 GS750/400の西ドイツでの走行テストが終わって、四人のヨーロッパのライダーたちとパフォーマンスバイクについて話し合ってみた。最初はまとまりのない話ばかりが続いたが、メンバーの一人が耐久レースの話を始めた。すると、みんな話に乗ってきた。
 耐久レースとは、二十四時間連続して走るという過酷なレースだ。中でも、フランスのル・マン二十四時間が有名である。土曜日の午後三時に約六十台が一斉にスタートし、翌日曜日の午後三時にゴールするまでの二十四時間だ。ライダーは一チーム三人で、一人が約一時聞走ると交代する。その交代の間に燃料を補給し、すり減ったタイヤも交換する。その聞十五秒前後と、ピットクルーの作業はとても早い。二十四時間に三千数百kmを走る。
 二十四時間のほか、八時間耐久、六時間耐久レースがあり、ヨーロッパでとても盛んだという。日本では鈴鹿八時間耐久レースが有名だ。当時は非公式戦だが、近いうちに世界選手権レースに格上げされるとの情報がすでにあった。ヨーロッパの耐久レースではホンダCBR九〇〇ccが連戦連勝し、不敗神話を誇っていた。
 そんな話を聞いて私のハートに火が付いた。よし狙いはこれだ! と瞬時に思った。4サイクルエンジン最後発のスズキが世間にアピールするには、権威ある人気レースに出場して優勝するのが最も手っ取り早い方法なのだ。

[写真:1972年に私はスイスのアルプス越えを体験した(photo:swiss-image.ch)]


〈63〉GS1000 無駄省き軽量化図る

 走っては止まり(急ブレーキ)、曲がってはまた走る。この基本機能がいかに大切かを私の体が覚え込んだ。スイスのアルプスでは一つ間違えば、千尋の谷へ真っ逆さまだ。何しろ、ガードレールがなかったのである。
 “安全で世界最速のパフォーマンスバイクを造ろう”が基本の発想だ。まずエンジンパワーが強力でなければいけない。車体のサイズ車重はGS750くらいが上限だろう。半面、パフォーマンスバイクは、ただ速いだけでなく、乗り心地の面でもトップレベルでないといけない。大陸横断や縦断の相乗りロングツーリングで疲れの少ないものにする必要があるからだ。
 そのためには、クッションのバネを柔らかくしたい。さらに、チューニングアップすれば二十四時間耐久レースで優勝するまでに成長する可能性を持てる。などなど、ヨーロッパテストが終わるころには構想が具体化してきた。
 昭和五十一(一九七六)年二月、カワサキZ1に対抗できる一〇〇〇ccを造りたいとの要望が、スズキ本社の商品企画部にすでに提案されていたと、後になって私は聞いた。ヨーロッパテストから帰国するとすぐに、パフォーマンスバイクを具体化する検討に移った。エンジンの排気量は一〇〇〇cc、車体はGS750と同じとし、一切の無駄を省いて軽量化を図る。一例として、エンジンの始動装置にセルモーターとキックシステムの両方があるのが当時の常識だった。エンジン始動するのにセルとキックはダブリの機能だ。無駄なキックシステムを取ってしまおう。そうすれば軽くなるし、コストも下がる。エンジン長さが五センチも短くなり、その分車体を小さくできる。
 これに私たちはGS1000と名付け、暗和五十一年九月から開発することになったのである。翌年の九月に、ほぽ目標通りのGS1000の最終試作車が完成。私たちは、そのうちの二台を持ってアメリカヘ行った。昨年二月時のテストライダーを二人呼んでテストチームをつくった。当然、その中には「スズキはパフォーマンスバイクではない」と言ったボブ・クレーマーもいた。
 例によって私たちは、ロングトリップに出た。ロサンゼルスをたち、サンフランシスコに向かう。ゴールデンゲートブリッジを渡り、レークタホで一泊。翌日カリフォルニア山脈の東を南下、国立公園ヨセミテの山間道で走行テストをした後、三泊四日の行動走行試験を終えた。
 バイクのことに詳しいボブ・クレーマーらに評価を求めると、「これは立派なパフォーマンスバイクだ」との答えを得た。次いで私は、GS1000を世界にアピールする手段を考えることにしたのである。

[写真:レースでも大活躍したスズキのGS1000ヨーロッパ仕様]
〈64〉8時間耐久レース 吉村秀雄に協力依頼

 GS1000をどのようにして世界にアピールするかを考えていた。前年(一九七六年)の六月、GS750のヨーロッパテストを終え、私は鈴木実治郎社長(故人)に、「スズキGSシリーズは、世界トップレベルの製品に仕上がっています」と報告した。すると、社長は「これまで二サイクルエンジンで勝ったのだから、今度は四サイクルエンジンでもレースに出て勝て」との特命を私に与えた。
 実は、私は困った。GS生産車をやっとのことで生産レベルに持ってきたのに、レース用エンジンとしてさらに馬力を上げる技術は持っていないし、スタッフもいなかったからである。そんな折、昭和五十一(一九七六)年八月に吉村秀雄(故人)という人にロサンゼルスで会った。
 吉村秀雄と言えば、当時四サイクルエンジンのチューナー(改造してエンジンの馬力を上げる技術者)として、とても有名な人だった。私は「吉村さん、スズキのGSをやってくれませんか」と頼むと、彼はじっと私の目を見詰めて「やりましょう」と、うれしい返事をしてきた。
 目標は昭和五十三年の鈴鹿八時間耐久レースに勝つこと。私は生産車両と同じ仕様のGS1000を二台、五十二年の暮れまでに吉村のいる米北ハリウッドに空輸した。発表直前だったので極秘扱いとしてもらった。
 五十一年ごろから、ヨーロッパでは長持間走る耐久レースが盛んになっていた。五十一、五十二年にホンダRCBが連戦連勝しているニュースは、日本にも伝わっていた。私はGS1000でこれを狙った。
 当時は非公式戦だったが、五十三年から世界選手権に格上げされることになった。日本では、鈴鹿サーキットでも八時間耐久レースが行われるとの情報が入ってきた。私は胸の躍るのを覚えた。
 早速、私はヨーロッパ耐久レースのタイムを調べた。するとロードレースのそれよりも一周のタイムが三ー四秒も遅い。耐久レースは完走重点主義だったため、それが常識であり、そんな中でホンダRCB軍団は常勝し、神格化され、尊敬されていた。私は吉村に「世界GP並みのスピードレースをやりましょう」と言うと、「それで当然です」と吉村はうなずいた。
 昭和五十三年七月三十日、快晴、気温三三度の猛暑。七万人を超す大観衆が見守る中、午前十一時半にシグナルが青に変わった。四十台のマシンたちがごう音とともに一斉に第一コーナー目指して飛び込んでいく。
 わがウエス・クーリーがスプリントレース並みの超スピードで、トップで先頭集団を引っ張る。私は最終コーナーの方を、身を乗り出して見た。トップはわがウエス・クーリーだ!

[写真:吉村(左)と私の友情は彼が他界するまで続いた。これまで、ヨシムラ・スズキは8耐で3度優勝している]
〈65〉RCB神話 2台止まり完全崩壊

 昭和五十三(一九七八)年七月三十日午前十一時半、シグナルが青に変わった。第一回鈴鹿八時間耐久レースのスタートだ。コースのピット側に予選の順位で並べられたマシンヘ観客席側からライダーが一斉に駈け寄るルマン式スタートで、四十台のモンスターたちがごう書とともに第一コーナー目指して飛び込んでいく。
 ビットのことはヨシムラのおやじさんに任せて、私は鈴鹿サーキット正面スタンド上の貴賓席の真ん中に、双眼鏡片手に陣取った。この席は、ピットレーンを含め、サーキットの東半分をほとんど見渡せる絶好の観戦場所である。
 トップ集団は、第二コーナーからS字カーブをまさしくスプリントレースの超スピードで走る。トップは、わがGS1000Rを躯るウエス・クーリー。彼が後続を引っ張って、奥のコーナーに消えていった。私は口の渇きをこらえながら身を乗り出して最終コーナーを注目した。来た! ウエス・クーリーのGS1000Rだ。続いてカワサキ、ヤマハ、カワサキの四台が一団となって通過する。
 とにかく速い。私はRCB軍団が気になり、再び最終コーナーヘ目を移す。すると五ー六番手にいたスタン・ウッズのRCBが大きく膨らんで大転倒!最終コーナー出口で大きく土煙を上げた。ウッズは間もなく歩き出したので、大きなけがはないようだが、マシンは大破した。
 先頭集団のあまりの速さにペースを乱されたのであろうか。オーバースピードによる転倒のように、私の目には映った。これでRCB軍団の一角が崩れ去った。ライダーというより、ホンダRCBチームの焦りが表れたのだと、一瞬わたしは思った。
 スタートして五十分ほどで、ガソリン補給とライダー交代がある。規則で決められたタンク容量は二十四リットル、クイックチャージで滞タンに要する時間は約四秒、ライダーが交代して再スタートするまでにわがチームがピットストップに要した時間は七秒。ピットクルーの迅速さに私は満足した。
 気になるGS1000Rのエンジン音はスタート時とまったく変わることなく、快調である。スタートして二時間四十分ほどした午後二時すぎ、場内アナウンスが絶叫した。もう一台のRCBが止まったのだ。この時点で、ホンダRCB神話は完全に崩壊したのである。
 この時、スプリントレースで世界GPチャンピオンを取り続けている私たちの自信が本物であったと、証明されたのだ。五十分ごとにガソリン補給とライダー交代、タイヤ交換を繰り返すうちに、午後七時三十分のゴールの時間が迫った。。

[写真:1978年の第1回鈴鹿8時間耐久レース。この記念すべき大会でGS1000Rは勝った]

〈66〉ケニー世界GP参戦 強敵現れ不安よぎる

 午後七時少し前、ライトオンのサインが出て全車ヘッドライトを点灯。この時点でヤマハに四周(約二十四キロメートル)差をつけていた。そして、七時半を少し過ぎ、チェッカーフラッグが振られた。私たちのGS1000Rがついに優勝したのである。
 ピットの中はもう大騒ぎだ。私は吉村秀雄(故人)を見つけると、互いに駆け寄るようにして無言のまま抱き合った。その瞬間、“痛いっ!”。オヤジさんのあばら骨が、まともに私のあばらにゴツンとぶつかってきた。“オヤジさんはやせてるな”と思った。この八耐のために、二年もの間、死力を尽くしたのである。オヤジさんも痛かったろう。その時は私も五十数キロしかなかったから。勝った喜びと、オヤジさんへの感謝の気持ちが入り交じった最高の抱擁だった。
 “四サイクルで勝て”の特命も果たせた。それ以上にうれしいことがあった。四サイクル最後発のスズキが、耐久レースのビッグイベント、第一回鈴鹿八時間レースを制したことで、世界中にその存在を認知させることができるのだ。真夏の猛暑の中、エンジン全開で走りきっての優勝である。燃料補給七回、八時間で鈴鹿サーキットを百九十四周、全走行距離千百六十四キロメートル、平均時速一四五・五キロメートルが、その日の記録である。
 昭和五十三(一九七八)年、私は、二輪設計部次長になった。途端に、仕事の幅が広くなった。エンジン設計、車体設計など二輪車全般となる。それに、レースグループ長も兼務となった。
 五十一年と五十二年、バリー・シーン(英)はロードレースGP五〇〇ccクラスの世界チャンピオンを獲得していた。メーカーチャンピオンもスズキが二年連続して取った。五十二年秋になって、翌年のロードレースGPに、ヤマハがケニー・ロバーツを参加させるとの情報が入った。彼は、当時アメリカでナンバーワンのライダーである。
そのことは、昭和五十年、デイトナ二百マイルでの役の素晴らしい走りを自分の目で確かめたのでよく知っている。
 デイトナスピードウェイは、米フロリダ州宇宙ロケット打ち上げのケープカナベラルの北方百キロメートルのところにある。毎年三月、そこで二百マイル(三百二十キロメートル)レースが行われ、その年の最初のビッグレースとあって、世界中から多くが参戦する。
 私は、昭和五十年三月のこのレースでケニー・ロバーツの走りを見た時、これは人間技ではない、神様の走りだと思った。そのケニー・ロバーツが来年から世界GPに参戦するという。私の頭を、バリー・シーンが負けるかもしれないという考えがよぎった。

[写真:1980年の鈴鹿8耐で再び勝った∃シムラ・スズキのGS1000R]


〈67〉ケニー対策 相手の長所を短所に

 昭和五十一(一九七六)年、五十二年とスズキがロードレースGP五〇〇ccを制した中、ヤマハが五十三年からケニー・ロバーツを連れてくるという。わたしは、緊張というより怖さを感じ、身の引き締まる思いで来シーズンのための開発を始めた。
 こうして、五十三年シーズンが開幕。第一戦のベネズエラGPではわがバリー・シーンが優勝し、ケニー・ロバーツは途中棄権。第二戦のスペインGPではロバーツ二位。しかし、案の定、ロバーツは第三戦以降三連勝してポイントランキングのトップに立った。
 この時点で、私は方針を変えた。ライダータイトルは捨ててもやむを得ない。われわれのライダーが遅いわけでも、マシンが悪いわけでもない。ケニー・ロバーツが速すぎるのだ。それなら、メーカータイトルだけは死守しようと考えたのだ。当然、開発の手は休めず、ほんの少しでもいい方向を示すパーツは、すぐに現地に空輸した。“ほんの少し”を大事にしよう、それがいくつも集まれば、マシンの総合性能は相当レベルアップするはずだ。
 五十三年のシーズンが終わって、個人タイトルはヤマハのケニー・ロバーツに取られた。しかし、メーカータイトルは三年連続のV3を果たすことができた。五十三年は、鈴鹿の八時間耐久レースでスズキGS1000Rが優勝してうれしい年であった半面、バリー・シーンが負けた寂しい年でもあった。
 昭和五十三年のシーズンを終わって、翌年に向けての開発が始まった。開発目的はただ一つ、ケニー・ロバーツを負かすことのできるマシン造りであった。五十年にケニー・ロバーツをデイトナで見て以来、彼は神様か、と思うようになっていた。実は、後になって、そう考えること自体が大変良くないと反省した。彼を神様だと思った時点で、私は負け犬根性になっていたのだ。気持ちで負けると勝負には絶対に勝てない。
 しかし、五十四年になると、“あいつだって人間だ”と思えるようになった。人間だったらすきがあるはずだ。欠点もあるはずだ。ところが、いくら考えてもそれが見つからない。当持の私の仕事は、四サイクルエンジンを中心とした商品開発が主だった。にもかかわらず、ケニー・ロバーツのことがいつも頭にあった。
 昭和五十四年六月下旬に、私は大変なことに気付いた。それは、ケニー・ロバーツを負かすコンセプト(概念)の発見であった。アウト・イン・アウトのまったく理想的な走行ライン取り。これが彼の最
大の武器なら、それを欠点にしよう、「相手の長所を題所にする」と
いうコンセプトである。

[写真:現在もグランプリの最前線に立ち続けるケニー・ロバーツ。私の大切な戦友の一人だ]

〈68〉走行テスト(上) 5台持ちアメリカヘ

 昭和五十一(一九七六)年の正月、私は浜松市郊外のゴルフ場にいた。四番ホールのティーグラウンドに着いたとき、キャディーマスターが車でやって来て、「横内さん、会社から電話です」と言う。プレーを中断して電話口に出ると、開発スタッ
フの一人が、「GS750最終試作エンジンの耐久試験で不調になったので、すく会社に来てください」と、切迫した声で伝えてきた。一月一日付で二輪エンジン設計課長になった私への最初の業務連絡だった。エンジン不調の原因は簡単なことだったので、対策にはそんなに時間を取らずに済んだ。
 アメリカの排ガス規制が昭和五十一年から厳しくなり、一酸化炭素(CO)などの排出量をそれまでの十分の一以下にしなさい、ということになっ
た。その対応策として、スズキは4サイクルエンジンのGS750、550、それに400の三機種を並行して開発していた。昭和五十一年一月にこれらは90%完成しており、一部耐久試験を残すのみとなっていた。
 耐久試験とはいうものの、破壊試験に近い厳しい条件で行われていた。試験室の広さは畳十四畳くらいの広さだろうか。安全と防音のため、厚さ三十センチのコンクリート璧の部屋に、厚みが一センチのガラスが三重に張られた幅一・五メートルぐらいの窓から、中を監視できるようになっている。コンピューターコントロールにより、耐久試験運転がなされる。この耐久試験にパスすれば、エンジンは終生絶対に壊れないだろうというほどの厳しい評価基準だった。
 厳しい耐久試験を見事にクリアした私たちは、二台のGS750と三台のGS400、合計五台を持ってアメリカに飛んだ。昭和五十一年二月初めのことだ。主な市場である地で走行テストをするためである。
 比較用として、競合するホンダやカワサキの各車種、五台のオートバイを現地で購入した。これで合計十台の二輪車軍団が誕生。アメリカ国内から集めたテストライダーにUSスズキの社員十人を加え、私たちは長期間の走行テストに出発した。
 軍団は太平洋沿いに南下してサンディエゴヘ向かい、そこから東に向きを変え10号線を走った。メキシコとの国境沿いに、当時ヤクルト球団の春のキャンプ地でおなじみのアリゾナ州ユマがある。そこで一泊。
 翌朝ホテルを出発し、向きを北に変え、“コロラドリバーインディアン保護区”で休息をとった。私は売店でインディアン手作りの木製の鳩(はと)を二個買った。コロラド川に抜ける手前の山道は、格好のワインディングロード(峠道)である。

[写真:ラスベガスからロサンゼルスへ向かうテストチーム]


〈69〉48時間の勝負 異常解消へ不眠不休

  昭和五十六(一九八一)年四月二十五日、世界ロードレースの第一戦がオーストリアで開幕した。スズキRGΓ(ガンマ)勢は圧倒的に速く、見事にワン・ツー・スリーフィニッシュをした。
 レース前半の七、八台の激しいバトルは想像を絶し、コーナーで車体と車体がぶつかることもあったくらいだ。あまりの激しさに、それまでGPで五勝していたスズキのハートフは、恐れをなしてシーズン途中で引退したほどである。
 出足快調のRGΓ軍団だったが、第二西ドイツGP、第三戦イタリアGPとつまずき、またもやヤマハのケニー・ロバーツに二連勝を許した。
 RGΓのエンジンに異音が発生した。エンジンのピストンは、一分闇に一万三千回以上もシリンダの中を上下するが、そこで異常が起きたのである。エンジンには、燃料と空気が適度な割合で送り込まれる。が、第二、三戦では、そのバランスが崩れてしまったようだ。燃料と空気のバランスを取るのは気化器(キャフレター)だ。
 第三戦が終わった翌日の五月十一日、月曜日の朝、現地からトラブルに関する詳細な報告を国際電話で受けた。第四戦は次の日曜日、五月十七日だ。実質一週間もない。しかし、これには何としてでも対策を講じなければならない。
 すぐさま関係者が集まり、本社で緊急対策会議を開いた。不安定な気化器の対策を考えるためだ。緊張した雰囲気の中にも積極的な意見が多く出て、結論が出たのは昼前だった。次のフランスGPの公式練習は金曜日から始まる。それに間に合わせるためには、対策品を水曜日の午前中までに用意する必要がある。今、月曜日の昼だから、与え
られた時間は月曜日の午後と、翌火曜日いっぱい、それに水曜日の午前中を加えても四十八時間しかない。“勝負は四十八時間”。不眠不休も仕方がない。ある者は実験室に飛び、ある者は外注先に飛んだ。何しろ、五〇〇cc排気量でも一五〇馬力を超える高性能なエンジンゆえに、非常にデリケートだ。ほんのちょっとした差が成否を左右するのである。
 良さそうな対策諸元が見つかったのは、水曜日の午前十一時ごろだったろうか。実験チーフを担当した荻野弘志が「多分これでいけると思います」というデータを私に示した。「よし!これでやろう。荻野君、このパーツを四台分持って今夜の飛行機でパリヘ飛んでくれ」
 木曜日の朝、パリ・オルリー空港に着くと、スタッフが待っていた。第四戦、フランスGPは再びスズキのワン・ツー・スリーフィニッシュとなった。四十八時間の勝負は成功した。

[写真:1982年のGP500cc世界チャンピオンとなったRGΓ(ガンマ)]
〈70〉個人タイトル 3年がかり奪い返す服

 五月十七日の日曜日、第四戦フランスGP。レース前半はケニー・ロバーツとの激闘はあったものの、今シーズン二度目のワン・ツー・スリーフィニッシュを達成することができた。優勝したのはイタリアチームのM・ルッキネリで、ケニーは五位に終わった。現場のメカニックたちも苦労したが、“四十八時間の勝負”は成功した。
 第五戦のユーゴGPは、フランスGPと同じマシンで出場することにした。ユーゴGPの結果は、一位R・マモラ、二位M・ルッキネリとRGΓ(ガンマ)がワン・ツーを取り、ケニーは三位。奮起したであろうケニーは、第五戦を果敢に戦った。しかし、全力を出し切ったはずの彼はトップに大差の三位に終わった。これがショックだったらしい。ユーゴGPの後、私のところに情報が入った。それはケニーの談話だった。「最善を尽くしたが、マシンが左右に振られてスズキに付いていけない」と漏らしたという。私はその話を聞いた瞬間、“しめた!これでケニーに勝てる”と思った。それまでの彼は、どんな場合でもマシンに対する不満を公言したことはなかった。
 私が“しめた”と思ったのは、これでライバルチーム内に“何かが起きる”と予感したからだ。あれほど良かったヤマハのチームワークに、ギクシャクしたものが生じるだろう。そうなれば、ライバルの勢いは必ず止まる。
 私たちは第六戦用に、優れた部品を空輸した。“部品は薬”である。これでスズキチームは元気が出る。しかし、“相手には毒”になるはずだ。
 いよいよ第六戦、オランダGP。各ライダーはそれぞれのスターティンググリッドに着き、シグナルが赤から青になるのを待つ。と、その時、ケニーが何やら大声で叫びだした。前輪の方を指さして異常があるのを訴えている。
 シグナルは時間通り青になり、三十六台がごう音とともにスタート。そこに一台だけ残されたマシンがあった。ケニーのヤマハだ。前輪ブレーキの組み違いをしたようだ。他人の不幸を喜んではいけないが、相手チームのミスを誘うのも勝負のうちだ。
 昭和五十六(一九八一)年、ロードレース五〇〇ccクラスは、第十戦フィンランドGPを迎えた。勝てば個人、メーカータイトルが取れる。私も浜松から飛んだ。第十戦、シグナルが青になると、RGΓのM・ルッキネリが飛び出し、イン・イン・インの走りで、そのままゴールして優勝した。念願の個人タイトルをケニーから三年がかりで取り返した。RGΓは、真に栄光のマシンとなったのである。

[写真:1981年、フィンランドのイマトラサーキットで勝ち、メーカーとライダーの両チャンピオンシップを手中にした際の記念写真。ルッキネリらと一緒に]
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