世の中の流れを変えよう
元スズキ二輪車設計者 横内悦夫

(宮崎日日新聞連載 2008年3月13日 〜 2008年3月21日 掲載分) 1/9
〈1〉GPレース参戦へ 世界一命じられ衝撃

 「横内君、レースグループ長をやってくれ。世界グランプリでチャンピオンを取るんだ」と、設計部長に命ぜられたのは、入社十六年目、昭和四十八(1973)年十二月になって間もないころであった。
 二輪車のグランプリ(GP)レースを通じて世界の頂点を極めろという、あまりにも大きな仕事、しかも寝耳に水の話に、その瞬間、私の体の中にビーンと衝撃のようなものが走るのを覚えた。設計部長の、世界チャンピオンを取れという言葉が、私にはとても怖かったのである。
 当時、私は三十九歳。スズキ株式会社二輪設計部エンジン設計課長の職にあり、エンジンの大きさでいえば、50ccから750ccまでの市販車のエンジン開発に携わっていた。それらのエンジンは、おおよそ世界グランプリレースとは関係のない技術的内容のものであった。
 私たち二輪設計部は、静岡県浜松市郊外にある本社工場(広さ五万坪)の一角、技術センター内にあった。この技術センター二階の、二百坪ほどある大きなフロアのほぼ中央に設計部長がいて、そこから五十メートル離れたところに私の机があった。
 設計部長の秘書係の女子社員が私のところに来て、「部長さんがお呼びです」というので、私は部長のもとへ飛んで行った。そうしたら“世界チャンピオンを取れ”との命令が出されたのである。
 スズキのグランプリレース参加の歴史は、昭和三十五年から始まる。二輪車メーカースズキの名を世界に知ってもらうためと、技術開発を主な目的としていた。
 グランプリレースには、ロードレースとモトクロスがあり、ロードレースは特殊舗装された周回路でスピードを競う。一方のモトクロスは、土の上の周回路を走るレースである。
 ロードレースは、外国人ライダー(プロの選手)を擁して参加した昭和三十七年から一時撤退するまでの六年間に、スズキは七つの世界タイトルを獲得したのである。
 モトクロスは昭和四十五年から四十八年までの四年の間に六つの世界タイトルを取った。ライバルは日本のオートバイメーカーのほか、ドイツ、チェコ、スウェーデン、スペインらで強力なメーカーがいた。
 このように、スズキは世界グランプリにおいて、ロード、モトクロスレースを合わせて十三個もの世界タイトルを取っていた。「参加するからには世界タイトルを」は、スズキの伝統となっていたのだ。設計部長から「レースグループ長をやれ」と言われたとき、私が怖かったのは、この“伝統”である。
[写真:筆者近影。静岡県浜松市・スズキ本社前で]
〈2〉レースグループ 戦う集団へ改革図る

 「レースグループ長をやれ」と言われたとき、私は、背中に一瞬、電気が走ったのを覚えた。
 伝統は守らなければならない。それには勝つ以外にない。プロフェッショナルの世界では一位しか意味がない。金メダル以外に欲しいものはない。
 昭和四十九年(1974)年、スズキは前年世界チャンピオンを取ったモトクロスレース500ccクラスへ参加している。だが、当時のスズキには時速300キロを超えるロードレース500ccクラスでの経験がまったくなく、当然技術の蓄積もなかった。
 レースグループの前任者にあいさつすると、ひと言だけ「技術的貯金は何もないよ」という冷たい言葉が返ってきた。不安な気持ちでレースグループへやってきた私への、「貯金はない」の言葉の裏側に、レ−スグル−プ内に、何かしらマイナス面を含んだものがあるのを感じ取った。
 それとなく開発メンバーたちの様子を観察した。すると、私の緊張感に反して皆の動きが非常に緩慢としている。グランプリレースで戦う集団とはほど遠い雰囲気である。
 例えば、真冬のことゆえ、日当たりのよい窓際に集まって日なたぼっこをするのは一向に構わない。しかし午後の始業ブザーが鳴ればすぐに仕事に取り掛かるのが当たり前なのに、鳴り終わった後もまだおしゃべりを続けている。スズキの中で、こんな職場は見たことも、聞いたこともない。
 私はこれが気に入らなかった。毎日ヒゲを剃(そ)りなさいと言うと、面倒くさいと言葉が返ってくる。無精ひげは人に会うとき失礼だし、第一面倒くさいという気持ちで仕事に当って、設計や整備にミスがあっては大変だ。私は戦う集団の雰囲気づくりから始めた。
 昭和三十年代から四十年代にかけての、あのものすごい気概はどこへいったのか。私は不思議でならなかった。「技術的貯金はないよ」という引き継ぎの言葉が、すべてを物語っていたことに私は気がついた。
 結局レースグループの一番の問題は唯一“気”だったのである。そんな雰囲気の中で、大きな救いがひとつだけあった。直接手を汚して開発に携わるメカニック(整備士)たちと接してそれが分かった。
 彼らはグランプリレースのことをよく知っている。「横内さん、このままでは負けますよ」と現場を預かっているプロの連中は、現在のレースグループの雰囲気に危機感を持っていた。これは私にとってありがたい救いであった。
 
[写真:1974年のオランダGP500cc。先頭のゼッケン38がスズキRN74を駆るロジャー・デコスタ]
〈3〉外国人ライダー 不信感表され悔しさ

一月下旬、数人の外国人ライダーたちが静岡県浜松市にやってきた。その年のグランプリレースに出場するマシンをテストするためだ。外国人ライダーとは、プロ野球の選手のように、オートバイメーカーがグランプリレースに出場するためにのみ契約した、プロフェッショナルのライダーのことである。
 特殊舗装の周回路で競うロードレースのライダーには、バリー・シーン(英国)がいた。牧草地や林の中など土の周回路で競うモトクロスレースのライダーは、ロジャー・デコスタ(ベルギー)が代表格だった。
 毎年四月から世界グランプリレースの公式戦がヨーロッパを中心に行われる。一カ国一戦ずつ、年間十数戦のレースを行う。使用するオートバイは競馬のサラブレッドのように、グランプリレース専用に開発された特別なマシンである。
 昭和四十九年用マシンは既に組み立てられており、ライダーの体格や好みに合わせる作業を残すのみだった。ハンドルの位置やステップの位置を調整するのだ。位置の調整を済ませると、双方のテストコースへと出かける。
 ロードレースの走行テストは、浜松市に沿って流れる天竜川の河口東側の「竜洋テストコース」で行う。テストコースは直線路やS字カーブのある一周六・五キロの周回路である。
 モトクロスレースの走行テストは浜松市の西方、浜名湖近くの丘陵地を切り開いて造った一周二キロの周回路で行われる。
 走行テストが始まった。ロードレース組は竜洋テストコースへ、モトクロス組は浜名湖方面へと、それぞれ朝九時に出かける。私は双方に一日ずつ立ち会うことにした。
 夕方四時ごろテスト走行が終わると、ミーティングが始まる。するとライダーたちから苦情が出る。「高速時の車体の安定性がよくない」「カーブで思うようなライン取りができない」「エンジンの力が不足する」などで、マシンに対する苦情が多く出る。
 モトクロスマシンも同様である。スズキ本社に戻り、指摘されたところを改善する。翌日にまた走行テストをする。
 二、三日たってライダーたちから要求がくる。「ミスター・ヨコウチ、なんとかしてくれないか」と注文が付いた。しかしレース用マシンのことがよく分からない私には、適切な返事ができなかった。
 そのうちに彼らは私への不信感を表すようになった。「今度のボスは頼りにならない」と。外国人にナメられた。私はとても悔しかった。
 私に技術的実力がないことが原因だから仕方のないことだった。あれこれ考えているうち、私は一つの方法を見いだした。

[写真:1974年7月、オランダにおけるモトクロスGPの表彰台。中央1位がロジャー・デコスタ]
〈4〉プラス思考 仕事と選手に惚れる

 私は、日本人が外国人からばかにされたと思うと情けなくなった。日本人としてのプライドもある。あれこれ考えているうち、一つの方法を見いだした。
 結局は“やるしかない”。ではどうやってやろうか、と自問自答の末、「仕事に惚(ほ)れる」ことにしようとの答えを出した。
 自分の仕事は世界トップレベルのマシン開発である。仕事に惚れることで、それが可能ではないかと考えた。ではどうやって世界トップレベルのマシンは開発できるのか。実現に向けての方法はどうすればよいのか。
 次いで出てきた答えは“選手に惚れる”ことだった。それができれば、彼らの指摘する技術的問題点を素直に聞き入れることができるだろうし、指摘する問題点を解決してやることが改善の最も手っ取り早い方法になるはずだと考えた。なんといっても彼らは、世界トップレベルのライダーたちばかりだ。
 ところが、私と彼らとはすでに感情的におかしくなっている。私だってメンツはある。そう簡単に惚れる気にはなれない。しかし待てよ、私に文句ばかり言うデコスタたちの気持ちの裏側を思えば、世界チャンピオンを取りたい一心からであろう。その分だけ私への期待も大きいからであろう。
 そうでなければ彼らがこんなに文句を言うはずがない。これはスズキにとってもいいことなんだ。同時に私にとってもありがたいことだし、彼らを通して私の仕事を成功させる早道になるかもしれない、と考えることにした。プラス思考である。
 そう考えることで、私は素直になることができた。すると惚れた私の気持ちは“彼らに尽くす気持ち”へと変わっていったのである。
 気持ちを切り替えてみると、不思議なことに、彼らが私の弟のようにさえ思えるようになった。素晴らしい弟たちがいっぱいいる。技術に関する彼らの要求は、何でも聞き入れてやろうという心境にもなった。何でも聞いて「その日のことはその日にやる」ことにした。
 浜松の日没は、宮崎よりも三十分ぐらい早い。気候は宮崎とよく似ている。気候温暖で、冬になっても雪は降らない。南に遠州灘を控えており、時期になると海亀が卵を産みにいっぱいやってくる。
 私たちの走行テストが終わるのが、午後の三時、遅くて四時ごろだ。一月の日没は早い。終わるとその場でミーティングを始める。
 黒板にライダーが不満に思っていることを全部書かせる。「その日のことはその日にやる」と決めたのだから、浜松の本社に着くと指摘事項への対策がすぐに始まる。
 
[写真:名ライダーのロジャー・デコスタ(左)と筆者。1978年12月、竜洋にて]
〈5〉「マシン改良−開発スタッフが意欲」

 “その日のことはその日にやる”と決めると、開発スタッフの動きも素早さを増してきた。持ち帰ったマシンは、またたく間に分解される。
 エンジンのパワー不足対策の部品を作ったり、車体後部が弱そうだとの指摘に、鉄板で造った補強板を電気溶接する。私たちの整備室には、機械加工設備や溶接設備などが整っていたので、簡単な部品加工や溶接はそこでできた。
 部品ができると、明日の走行テストに間に合わせるため、再度組み立てられる。終わって、きれいにマシンを磨いたころには、もう午前2時か3時になる。それから家路につく。
 翌朝9時、ロードレースとモトクロス、両方のテストチームがそれぞれのテストコースへと向かう。
 徹夜の仕事も2日や3日なら我慢できるが、それを過ぎるとやはり苦しくなる。私より大変なのは、実際に作業をするスタッフの面々である。
 彼らは“その日のことはその日にやる”ことに、はじめのうちは少々抵抗したが、徐々に私の気持ちを理解し、とてもよくやってくれた。それというのも、第一に彼らはレースが好きだったからだ。
 また、スタッフの一人一人が現状のマシンの性能を何とかせねば、と危機感を強く持っていたのも事実だ。だからこそ、昼間の走行テストに加え、夜中までマシン改良にも粘り強く対応してくれたのである。そのことがとてもありがたかった。
 時にはこんなうれしいこともあった。ロードレース担当のメカニック(整備士)が夜10時ごろに予定した仕事が終わった。彼は私のところにやって来て、「モトクロスの方を手伝いましょうか」と申し出てきた。
 私は「いいよいいよ。自分の仕事が済んだのなら帰っていいよ。ご苦労さん」と言って帰ってもらったが、ロードレースの担当者が夜中にモトクロスの手伝いを申し出たことが、私はとてもうれしかった。
 ロードレースであれモトクロスであれ、スタッフ全体にチームワークができたことを感じて私は心強く思った。
 開発スタッフのご家族の方々にも、私はずいぶんとご迷惑をかけてしまった。私自身にしても、家庭を振り返ることなく、仕事一辺倒なのに、私の妻は献身的な協力こそすれ、ただの一度も愚痴をこぼすことはなかった。子供たちはちゃんと育ったし、なんと強くて優しい女かと、後になって気付くのである。当時、長男12歳、二男は9歳であった。
 わが家では、私が帰宅するころには、ふたりの子供たちはすでに寝ており、妻だけが夜食を作って私を待っていてくれた。

[写真:1968年6月、アメリカ駐在から帰国途中、ホノルル空港での筆者夫妻。後方に2人の息子 ]
〈6〉「出生・幼年期」自分流貫き叱られる

 昭和十七年(1942)年だったろうか。私の家の西側の唐瀬原草原に、南の方から飛んできた一機の輸送機が落下傘(パラシュート)を次々と投下してきた。今の川南町立唐瀬原中学校の上空の辺りからボロボロと降りてくる。
 兵隊さんが飛び降りると、一瞬の間に落下傘は開く。青空の中、白くて丸い落下傘はゆっくりと降りてきた。
 私は、昭和九年四月、宮崎県児湯郡川南村塩付に生まれた。塩付は、唐瀬原パラシュート降下場のすぐ東側の国道沿いにあり、のどかな穀倉地帯だった。
 祖父・横内京一は祖母ソノとともに大正初期まで米国ハワイ州オワフ島に働きに行っていた。
 大正初期に帰国すると、川南村に居を構えた。ハワイの気候に近い温暖な地はないかと探した結果、日向を選んだそうだ。間もなく川南村名貫の、名貫川の南側にでんぷん工場を建設した。近郷近在の農家がカライモを馬車に積んで運んできた。
 父・久夫は明治三十七(1904)年ハワイ州オワフ島で生まれた。九歳のとき帰国し、青年になると祖父とともにでんぷん工場で働いていた。
 家族は祖父母、両親と四歳年上の姉・伊津子、それに私の六人暮らしだった。祖母と母は小さな店を開いていた。たばこ、米、みそ、しょうゆ、さとう、塩、いりこなど、食べ物中心に扱っていた。夕方になると仕事帰りのおじさんが、いりこをつまみにコップ焼酎を楽しんでいた。
 昭和十六(1941)年、太平洋戦争が始まった年の四月、私は国民学校一年生になった。紀元2600年を記念して、学校制度が変わった。それまでの尋常小学校が「国民学校」と呼び名が変わった。
 国民学校一年生のときの担任の先生は、ミチコ先生という色白で独身の女の先生だった。名字は記憶していない。今の川南小学校のそばに下宿しておられた。
 工作の時間に御幣を作る授業があった。御幣とは、横綱が締めている綱に下がっている、白いビラビラのことである。私はこのとき、ミチコ先生の言う通りにせず、最後まで自分流を押しとおしたようだ。帰りに一通の封書を持たされ、帰ったら家の人に見せなさいと言われ、私は父にそれを渡した。
 するとその日の夜、父に「学校では先生の言うことを素直に聞きなさい」と叱(しか)られた。それ以来、私は人さまの言うことは素直に聞いておくものだと思うようになった。
 昭和十七年、二年生になったころ、近くに落下傘部隊があることに気づいた。その兵舎は川南町清瀬地区にあった。今、国立病院があるところだ。

[写真:川南村塩付で。3歳のころ]
〈7〉「飛行場建設−労働者が店に長い列」

 国立病院のある清瀬の南隣が川南町の中心街、トロントロンである。昭和9年に私を取り上げてくれた産婆さんは、そこから自転車に乗ってきてくれたそうだ。
 出水原付近の旧国道10号沿いの信号機の北側に、立派な御影石の石碑がある。石碑には文字が刻まれており、全国的にも珍しい「トロントロン」という地名のいわれが書いてある。
 昔、この付近はうっそうと茂った雑木林のくぼ地だったので、きれいな水が多くわきだし、小滝となって流れ落ちていた。江戸時代の参勤交代の折、行き来した大名たちが水のみ場として休息するようになった。
 その水の音が「ドロンドロン」と聞こえたのが始まりとなり、これが「トロントロン」という地名になったという。そのほかにも数説あるそうだ。
 昭和17年になると、塩付も急ににぎやかになった。塩付から名貫にかけて、広大な地域を飛行場にする工事が始まった。飛行場に付属する兵舎や飛行機の格納庫を建設するため、多くの大工や労働者が全国から集められた。沖縄出身者や東北出身者、それに外国人も大勢いた。
 私の家から国道を挟んで南側に集合住宅が何棟も建てられ、多くの家族が入居していた。男性は建設、女性は土木の手伝いをしていたようだ。当時これらの集合住宅のことを「飯場(はんば)」と呼んでいた。
 そのころ、早朝から家の前に長い行列ができるようになった。たばこを求めに来た飯場の人たちで、毎朝のことだった。
 朝7時になって父が店の戸を開けると、一斉に店の中に入ってくる。金鵄(きんし=今のゴールデンバット)をくれ、と言って買っていく。父は一人1個と決めていたらしく、1個で足りない人は、子供を行列に並ばせて買っていた。
 私が国民学校3年生になって間もなく、祖父京一とともに一家6人で、宮崎市の「こどものくに」に行くことになった。朝、暗いうちに汽車に乗った。
 こどものくにには、珍しく楽しい乗り物や見るものがいっぱいあった。中でもドラム缶を横にしたような大きな筒に乗るとグルグル回る遊具が面白かった。回転に合わせてステップすればよいが、私はそれができずに転んでばかりで、大変困った。帰りがけに買ってもらったういろうのことは今も覚えている。
 昭和19年正月を過ぎたころ、軍から立ち退き命令がでた。今住んでいる所は飛行場になるので引っ越しせよとのことだ。飯場の子供たちと別れるのかと思うと、寂しい思いがした。
 昭和19年3月、一家は、隣町の都農町松原へ移り住んだ。

[写真:トロントロンの地名の由来を記した石碑]
〈8〉「竹とんぼ」 羽の長さや角度設計

 昭和一九年四月、私は都農国民学校に転校した。四年一組に入ると、二、三人の男の子がやって来て「お前はこれにかなうか。」と言う。
 見るとその子は私よりも体格が大きくて強そうだったので、私は後ろへ下がった。山本房男君(故人)といって、いつもニコニコしていて私にはやさしい子のように見えたが、四年生の中でけんかが一番強いと聞いた。昔の子供は、こんなやりとりでおたがいを知っていたのだ。
 昭和二十年、五年生になった。すでに太平洋戦争は終わりに近く、五月か六月になるとアメリカ軍の空襲が始まった。グラマン戦闘機やカーチス戦闘機が川南飛行場に向けて機銃掃射をし、大型爆撃機B29が、九千メートルぐらいの上空を北へ向かって編隊飛行している。不気味だ。
 空襲警報が鳴ると、児童たち全員が校舎南側の深い森の中に、防空ずきんをかぶって避難した。ある日、学校に三発の爆弾が落とされた。職員室のすぐ西側に落ちた一発で女の先生が亡くなられた。後で行ってみると、校庭には直径十メートルもある大きな穴があいていた。
 八月十五日、正午の玉音放送で第二次世界大戦の敗北を知った。松原公会堂の隣の鍛冶(かじ)屋から金づちの激しい音が聞こえるので行って見た。戦闘帽をかぶった兵隊さんが全身に汗をかき、半分泣きながら、つちを全力で打っている。
 作ったばかりのかすがいを全力でたたき切っている。敗戦がよほど悔しかったのだろう。戦争に絶対に負けないと、それまで張り詰めていた気持ちが切れてしまった。気持ちの持っていきようがなくなったのだろう。子供の私にもなんとなくわかる。
 秋になり、幾つもの台風が宮崎県地方を襲ってきて、モノの無い時代が始まった。台風にやられて作物が全滅状態になって、食料が足りない。校舎も倒れて教室がなくなった。運動場はいも畑に変わった。敗戦のせいか教科書もなかった。
 だが遊ぶ時間は十分にあった。遊びの道具はほとんど自分たちで作った。竹とんぼは気に入りの一つで、友達と高く飛ばしっこをした。負けると悔しい。
 ここから本格的な工夫が始まる。「ひばりのように高く」とコンセプトを考え、校庭のセンダンの木ぐらい高く、と目標値が決まる。羽の長さや角度を考え設計をする。竹を拾ってきて「成田山」の小刀で削り出す。試しに飛ばして目標通りなら合格とする。
 このように私たちは、子供の時代に遊びの中から自然に技術開発のコツを覚えた。このコツは後のオートバイ開発にとても役に立った。モノのない時代に育った私たちに、一つだけあった良いことはこのことだ。

[写真:現在の都農小学校]
〈9〉尾鈴キャンプ−工夫し滝の高さ測る

 昭和22(1947)年に中学1年生となった。その年から学校制度が変わった。
 国民学校は小学校となり、高等科1、2年生は中学校に編入。私は都農中学1年生となった。
 終戦直後とあって、校舎はなく都農小学校の講堂を借りての勉強だった。講堂をいすや板で仕切っての教室で、先生方は大変苦労されたのではないかと、今思う。
 中学校は、小学校の東側の畑を整地して中学2年生のとき新築された。一棟だけの、百メートルぐらいあるとても長い校舎だったが、生徒全員は入りきれなかった。
 2年生だけでも生徒数は370余人もいたので、私たちの教室はボロ小屋だった。運動場は小学校と共用だ。
 中学2年生の夏、ボーイスカウト隊が結成された。数学教官の松川ひろし先生(故人)、体育教官の橋山敏秀先生(故人)が指導者となり、20人ぐらいのメンバーで発足。数班に分けられ私も隊員の一人となった。
 ボーイスカウトは、屋外活動を通じて心身ともに健全な少年を育成することを目的とする、と教えられた。スカウトとは「偵察」の意味があるそうで、人格、健康、奉仕が基本であるという。
 夏休みになって尾鈴山キャンプに行くことになった。毛布やハンゴウを背負い、みんなでトロ道を歩いた。トロ道とは、尾鈴山から切り出した材木をトロッコに積んで都農駅近くまで運んだ道のことである。キャンプ場は都農小学校の尾鈴分校だ。
 夕方近くに分校に着いた。下の名貫川で米を洗ってハンゴウ炊飯の夕食を食べた。暗くなって運動場でキャンプファイアーを楽しみ、夜は教室の机を片づけて寝た。
 翌朝、矢研の滝に向かった。名貫川の支流沿いに歩き、やがて滝に着いた。天空から垂直に落ちる大量の水と滝つぼから噴き上がる水しぶきに圧倒される。
 しばらく休息をとると松川先生が、滝の高さを測ろうと言い出した。タオルやみんなのベルトをはずしてつないだが足りそうにない。そこで山からかずらを取ってきて加えると長いロープができた。
 隊員の半分が滝の左側の急な山道を登った。上に着くと滝はとても高い。ロープを下ろして知ると、高さは75メートルとでた。
 滝のすぐ上流に「天の岩舟」がある。神代の昔、神武天皇が舟で川を下ると滝があったので左岸に舟を置いてきた。神武天皇が滝の岩で矢を研いだことから「矢研の滝」の名が付いたという伝説がある。
 尾鈴山キャンプをすることにより、人の和を、矢研の滝の高さ測定では偵察と奉仕の面白さを教えられたのだろうか。
 今となっては、いい思い出になっている。

[写真:高さを測った矢研の滝 ]
〈10〉 熱力学と祖母の教え− バイクと出会い興味−

 昭和25(1950)年、 高鍋高校普通科に入学した。3年生になると大学進学指導を受けるようになった。希望としては有名私立にあこがれたが、費用面でそれはあきらめざるを得なかった。
 父は、「授業料は国立大学が一番安い。そして、自宅から通学できるところを選びなさい」というので、自動的に宮崎大学となった。
 私は少年のころから物づくりが好きだった。竹とんぼ、めじろかご、ウナギ取りボッポと、竹を材料になたとナイフでの物づくりを趣味としていた。
 そんな私が中学2年生のころ、父の勤めていた町工場に遊びに行ったとき、小さなオートバイを見つけた。押してみたらエンジンがかかった。道路に出るとレバーの操作だけでひとりでにどんどん走ってくれる。
 こんなに面白い乗り物は初めてだ。自転車は自分で漕(こ)がねばならないが、オートバイは自分で走ってくれる。面白くなって都農の町に出た。すると北新町交差点付近でおまわりさんに止められた。
 「免許証を見せなさい」と言うので、「ありません」と答えると「ではもう乗りなさんな」と言う。そこで私は「はい乗りません」と言ってオートバイに乗って帰った。いい時代だった。
 そのころから私はオートバイに、中でもエンジンに興味を持つようになった。
 そんなこともあって、進学は宮崎大学工学部を受けることにした。工学部は宮崎市霧島で、県立宮崎病院と平和台との中間くらいにあった。私は定員30人の機械工学科に進んだ。
エンジンヘの興味から、大学での講義は熱力学に興味を持った。熱力学の講義で私を引き付けたのが「熱境界層の破壊」という言葉だった。
 少年のころ、五右衛門風呂の風呂炊き当番だった。風呂場に長さ1?半ほどの竹の棒があり、沸くまでに二、三回かき混ぜると早く沸くという。
 熱境界層の破壊は、棒でかき混ぜるときに起きる。まきが燃えて風呂釜が熱くなる。その熱で風呂が沸く。このとき湯と釜が接する付近にお湯のよどみ(熱境階層)ができて、このよどみが熱の伝わりを悪くする。
かき混ぜることによって、このよどみが破壊され、熱の伝わりがよくなる。だから風呂が早く沸く。
 このことを教えてくれたのが母方の祖母、川南町に住む山路セイ(故人)である。祖母は熱境界層を破壊すると風呂が早く沸くことを、先人の言い伝えで知っていたのであろう。家庭で湯を沸かすとき、やかんを二、三度ゆすると早く沸くのと同じである。祖母の教えは立派な省エネだ。先人の教えはすごい。
 この原理を利用して、後に私は、技術的に画期的ともいえる油冷エンジンを発明したのである。

[写真:後に開発したGSX−R750の油冷エンジン(オイルの流れを分かりやすくした図)。“ばあちゃんの知恵”が発想につながった]
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